月待行事

●はじめに

 田島良生氏(銭屋釣り具店店主)の呼びかけによる二十三夜講が、1016日(旧暦923日)午後5時過ぎに妻沼聖天山の鐘楼西側の「二十三夜塔」の前で、歓喜院鈴木英秀副院主の下で執り行われた。

 きっかけは、田島良生氏の先代が聖天山境内の二十三夜塔に関心を寄せ、塔に刻まれている講人を調べ、子孫明らかになれば、江戸時代の祖先の信仰に思いを致し、簡単な講を開催したいと言っていた。先代は実現できなかったので、ぜひ実現したいと、講人の子孫の方々に呼びかけられた。


●二十三夜塔

 この塔は自然石の大きなもので、最近名付けられた「夫婦の木(欅と榎)」の根元に建てられている。刻まれた文字から、二十三夜講の21名が奉納したこと、今から180年前の天保10年の正月吉日に建てられたことが判読できた。


●講の人たち

 聖天山に接する廓の上町10人、森下3人、池ノ上8人である。

 呼びかけに応じた9人及び郷土史家2人が集まり、午後5時過ぎから二十三塔の前で、歓喜院副院主の下でご祈祷が執り行われ、その後千代枡において「江戸時代の先祖を偲ぶ会」を開き、懇談が行われた。


江戸時代に行われていた月待ち行事の一つであるという。二十三夜の月が出るのは真夜中である。真冬の最中であるから籠り堂の中で待ったのであろうか。21名の談笑する声が聞こえそうである。

社寺の境内、集会施設の脇、路傍に置かれた石造物はまだまだたくさん見かけるが、その石造物に関心を持つ人は少なく、かつ、石造物にまつわる信仰や行事は消えつつある。

たんなる郷愁ではなく、費用の掛かる石造物を建てて供養し、その定められた月待ち行事を続けてきた人々の生活文化を調べてみた。


●月待(つきまち)行事

 お恥ずかしいことだが、「月待」という言葉も「二十三夜塔」という石造物が何のために建てられたか知らなかった。

 月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事である。文献史料からは室町時代から確認され、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行した。特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜は全国の路傍などに広くみられる。十五夜塔も多い。群馬・栃木には「三日月さま」の塔も分布しており、集まる月齢に関しては地域的な片寄りもみられる。(ウィキペディアによる)


●最も人気の高い二十三夜待

 二十三夜待は、太陰太陽暦では毎月23日に月齢に近い月が巡ってくる。行事として行われたのは正月・5月・7月・9月・11月の事例が各地で記録されている。聖天山境内の講中も正月の二十三夜を月待したことであろう。月待信仰が全国的に流行した背景には、太陰太陽暦によって人々が生活を営み、かつ月の持つ神秘さや力にあやかりたいという姿勢が神仏の信仰と結びつき「月待信仰」へと発展したといわれている。

 近世以降は、庶民の信仰と近隣住民間の結びつきから多くの講により、造塔も行われたものであろう。

 宗教との結びつきから、二十三夜は真夜中まで待って迎えることや下弦の月を舟に見立てて、仏がこの舟に乗って来て民を救済すると信じて崇めたといわれている。二十三夜の主尊は「勢至菩薩」であるが、それぞれの月待の主尊は次のとおりである。

 十三夜 虚空蔵菩薩

 十五夜 阿弥陀如来

 十九夜 如意輪観音

 二十二夜 如意輪観音


●勢至菩薩

 勢至菩薩は、大勢至菩薩の略称である。新編仏像図鑑に次のとおり紹介されている。

大勢至菩薩は梵名をマハラハタといい、訳して大勢至、得大勢という。弥陀三尊の一にして仏の智門をつかさどり、菩提心をおこさしむるをその本誓とす。

観無量寿経に曰く、「智慧の光をもってあまねく一切を照らし、三塗をはなれしむるに、無上の力を得、この故にこの菩薩を号して、大勢至と名づく」と。

観音と共に阿弥陀仏の脇侍となるが、観音の慈悲に対して、智慧の立場から救度するため、観音ほど信仰を集められず、単独の尊は少ない。

とある。ところが、月待信仰では全国的に祀られ、月待といえば二十三夜待である。智慧のひかりが即ち月光とみなされたのではないかといわれている。

●月の撮影

 この機会に二十三夜の月を撮影しようと、夜更かしをして待ったが、早寝の体質が災いし月の出る前に就寝。次ぐ日も失敗。結局3日目の2時過ぎにはトイレに起きた際に撮影。

 二十三夜をはじめとした月待ち信仰の月は下弦の月である。ほとんど見る機会がなかった。江戸の人々は海岸に出たり、高台や山の上から月の出るのを待ったという。真夜中過ぎに舟形の月が昇り始める様子は神々しく、舟に菩薩が乗ってくると思ったかもしれない。撮影はうまくいかなかったが、二十三夜の月を待って祈りを捧げた人々にちょっと近づいたようだった。


男沼風張集会所前
男沼風張集会所前

●妻沼地域の月待供養塔の造塔状況

二十三夜は月待行事の一つであり、講に集まった人達の供養塔である。聖天山以外の建立状況はどうであろう。

 妻沼町誌(昭和52年月刊)第七節民間信仰の項に「月待信仰」として、次のように記述されている。

「月待の信仰は、十九夜、二十二夜、二十三夜待といって講をつくり、女人が盛んに信仰したものであるが、当町における月待信仰は、造塔供養の実態からみると二十二夜講が一番多く、調査結果を見ると宝暦3年(1753)から14年の間に23基造塔されており、この年代に二十二夜信仰が急速にひろまった」とあり、二十三夜塔は文化4年(1807)以後数基造塔されたに過ぎないとある。


葛和田大龍寺
葛和田大龍寺

この当時の調査内容が知りたく、熊谷市市誌編さん室に尋ねたところ、「民俗資料 二十二夜待供養塔調査台帳 附諸待供養」を閲覧でき、調査結果が把握できた。

二十二夜(文字塔及び如意輪観音像) 38基

二人講中(勢至菩薩) 2基 (台座に女人講と刻まれ、台上に勢至菩薩像が乗る。)

二十三夜塔(文字塔) 3基(聖天山境内の塔は含まれていない。)

子待塔(文字塔) 1基 子待(ねまち)は甲子待(きのえま

                 ち)のこと。

巳待塔(文字塔) 1基 巳待(みまち)は己巳待(つちのとまち)の

            こと。

十六日念仏塔(文字塔)1基

調査票を見ると、昭和41年~49年の間に調査が行われている。

地域のよる偏りがあると指摘されているが、埼玉県内、熊谷市内の月待塔の状況はどうであろう。残念だが、資料の入手ができない。


若宮集会所前 二十二夜塔
若宮集会所前 二十二夜塔

今年発行された熊谷市市史別編1民俗(平成26年3月発行)を見てみよう。この別編の中に、数か所「月待行事」に関わる記述がある。

「第2章社会生活 第1節地域の組織 3諸集団(4)女性」の項に、「女性だけ行う行事は、主に安産の信仰に関わるものが多く見られる」とあり、事例を紹介している。石原、三ヶ尻、東別府等の二十二夜講を取り上げている。妻沼地域の例では、「若宮の二十三夜様を正月の3日に公民館で行う。世話人が中心になり、女の人が集まり、会食する。弥籐吾新田では、十数年前までは、十九夜様をしていた。女性だけの集まりで安産祈願が目的であった」と記述されている。各地区の聞き取り調査であり、石造物の実態調査ではない。

若宮の例では、二十三夜様といっているが、若宮集会所の前に建つ供養塔は、如意輪観音像の二十二夜塔であった。

十九夜、二十二夜、二十三夜が同じような形の行事となってしまったようである。


●参考資料

・ウィキペディア

・ホームページ「星の民俗館」

・妻沼町誌及び「民俗資料 二十二夜待供養塔調査台帳 附諸待供養」

・日待・月待・庚申待 飯田道夫 19927月発行 人文書院