間々田稲荷神社と岡田雄皝

 熊谷市間々田(旧妻沼町男沼地区間々田)にある稲荷神社の格天井に日本画家岡田雄皝の作品があると聞き、氏子総代の椎橋氏を訪ね、紹介された前自治会長青木氏の案内で、社殿の中を拝観ができました。

お話によりますと、岡田雄皝の実家岡田家は男沼地区に縁戚者も多く、元妻沼西中学校美術教師の浅見シズ氏の協力の下に、稲荷神社格天井に地元の人たちと一緒に作品を制作したということです。寺社の格天井に画家たちの作品は数多く残されていますが、地元の有志と一緒に制作したという例は数少ないのではないでしょうか。

そこで、「間々田稲荷神社と岡田雄皝」と題して、稲荷神社の案内と岡田雄皝を紹介します。

間々田稲荷神社

 間々田は現在熊谷市の北西部の集落です。旧妻沼町男沼地区で、古くは幡羅郡間々田村です。

 新編武蔵風土記稿の幡羅郡の間々田村の記述を見てみましょう。

「間々田村は原郷と唱ふ、庄領の名。民戸98、東西18丁余、南北15丁、東は出来島村、南は太田村、西は上野国新田郡前小屋村、北は利根川を隔て、同国同郡堀口村なり。」

「埼玉の神社」中に、次のように記述されています。 

「間々田は、利根川右岸の自然堤防上に位置し、その地名は崖を示す『マフチ』に由来する。村の開発は江戸初期のことと伝え、『風土記稿』によると、当社の別当は地内の真言宗嘉門山霊鷲院長裕寺であった。

神仏分離により長裕寺の手から離れた当社は、明治8年に村社となり、同41年から翌42年にかけて、伊勢坪の事任社(ことのまち)、神明社、北河原坪の羽黒社、諏訪廓の諏訪社、天神坪の天神社・八坂社の計8社を境内に合祀した。

本殿には、稲荷神の本尊で、福徳を授け盗難を除けるといわれる

荼枳尼天像が奉安されている。また、拝殿格天井には、狩野派の流れをくむ西倉重右衛門の水墨画「天竜図」が描かれている」

 社殿は、小高い塚の上に建てられ、周りの欅が包み込むように枝を広げています。江戸時代は利根川を行き来する船から、目印になったことでしょう。埼玉県古墳詳細分布調査報告書に「円墳30m 塚の可能性あり」と記されています。

 例祭である初午には万作踊りが奉納されていました。この万作踊りは、現在熊谷市指定文化財として、地域で継承されています。

岡田雄皝

鯛
 岡田雄皝は明治35年(1903)、東京下谷に生まれました。本名は計次。父親の岡田白柳(名は甚七 明治8年~昭和3年)は、小島村(現熊谷市、旧妻沼町男沼地区)の出身で、上京して警察官となり、かたわら南画を学び、日本美術協会、日本画会で活動していました。父の影響下、幼少のころより画才を発揮し、大正4年(1923)12歳にして荒木十畝(あらきじっぽ 明治5年~昭和5年)の門下となり、「万樹」と号し、14歳で「七面鳥図」を日本画会展に出品して初入選。大正10年19歳になって橋本静水(雅邦の嫡子)に師事、このころ号を「雄皝」と改めています。
海老
海老
 明治、大正時代は、日本画壇の揺籃期でした。純粋な伝統絵画を保存しようとの方針の下に集まった龍池会(後に日本美術協会、旧派)と岡倉天心の下に集まった新しい絵画を目指す鑑画会(後に日本美術院、新派)の2つのグループに分かれていました。師事した荒木十畝は、旧派の主要メンバーで、父の岡田白柳もメンバーでした。  日本画会とは、明治31年に創立の団体で、師の荒木十畝は結成者の一人。  大正10年から新派といわれた日本美術院の橋本静水(はしもとせいすい 明治11年~昭和18年、橋本雅芳の養子)に師事し、再興院展で大正12年に初入選。  岡田雄皝は新旧両派の師から学び、花鳥図にその才能を発揮し、昭和2年26歳の若さで院友に推挙されています。その後、昭和15年まで院展での入選を重ねています。 精緻美麗な花鳥画を得意し、海老と雀を描かせたら日本一と呼ばれるほどで埼玉画壇では大きな存在となりました。  昭和18年以降吉見村、東松山、嵐山に居住。昭和50年小川町に画室竹沢山荘を持ち静かな環境の中で制作活動続け、平成9年94歳で亡くなりました。

格天井画の制作

岡田雄皝の作品
岡田雄皝の作品
 稲荷神社の稲荷神社の拝殿には、狩野派の流れをくむ西倉重右衛門の水墨画「天竜図」が描かれていましたが、現在は色落ちしてしまい見ることができません。  昭和59年に奥殿の改修と併せて、岡田雄皝と地元の人たちとの共同制作が行われました。
地元の人たちの作品
地元の人たちの作品