妻沼郷の大正・昭和の書画展

 

妻沼掛軸愛好会(鈴木 進会長)は、熊谷市立妻沼展示館を会場にして、大正、昭和に活躍した人たちの作品を「妻沼郷の大正・昭和期の書画展」と銘打ち、平成26年111日、12日の2日間、開催しました。

 

 小杉香雪、舞原東海、石坂養平、岡部蒼風、柿沼宋居、岡田雄皝、野中南湖、石坂養平、吉田翠鳳、蜂須秀雲、倉上明湖の10人でした。

 

 

●小杉香雪 明治7年(1874)~昭和44年(1969

 

 新潟県長岡の小杉左忠の3男。幼少のころ別府安楽寺住職の伯父に預けられ得度して僧籍となる。長じて美濃国虎渓山毒湛和尚の厳しい修行を終えて上州富岡の東光寺を経て、明治42年八ツ口長昌寺の住職となる。画は江森天淵や奥原晴湖に学ぶ。南宗画が得意で「松翠富士嶺」、「赤壁賦」有名であり、ほかに扇面挿絵など多く見られる。

 

 

●舞原東海 明治16年(1883)~昭和28年(1953

 

 耕雲の孫にあたる舞原東海(名を譫一 字仁忠 号を晴雲)がいる。二代目幾太郎の推挙で当時日本南画界の最高峰と評判の高い、女流画家奥原(東海)晴湖の門下となって「東海」の号を頂戴した。画風は南画から脱皮して写実的で柔らかい雰囲気のある花鳥を好むが、東海といえば画人というより譫一とする書家としての足跡が知られている。書は流麗にして気品をたたえる書体で利根川新堤碑や聖天様境内にある幡羅高等小学校に係る石碑などがそれである。

 

 

●岡部蒼風 明治43年(1910)~平成13年(2001

 

 群馬県邑楽町に生まれる。昭和8年群馬師範学校専攻科卒業。昭和11年書道芸術社同人となり、書の新しい芸術運動を進める。昭和41年グループ「蒼狼」を「蒼狼社」として改組し、会長となる。昭和55年妻沼町日向に移住。

 

 

●柿沼宋居 明治36年(1903)~昭和46年(1971

 弥籐吾新田に生まれ、大正・昭和にかけて活躍した。若くして絵画に興味をもって精進し、日本美術学校を卒業後田中咄哉州について画を学び、師没後さらに中村岳陵に師事して画業に励む。作品は、緑彩鮮明な彩色画法による山水画を描き、帝展等全国レベルの絵画展に出品する等の業績をもっている。

 

●岡田雄皝 明治35年(1904)~平成9年(1997

 

 岡田甚七(号は白柳)の長子として東京下谷に生まれる。名を計次といい、幼少の頃より画才に秀れ12歳にして荒木十畝の門に入って万樹と号し、14歳のとき「七面鳥図」を日本画科会に出品し初入選する。19歳の時橋本静水に師事、このころ号を雄皝と改める。大正12年春「花梨の図」院展入選。同年、日本美術学校日本画科修了。

 

岡田雄皝は新旧両派の師から学び、花鳥図にその才能を発揮し、昭和226歳の若さで院友に推挙。その後、昭和15年まで院展での入選を重ねた。

 

 

●野中南湖 明治3年(1870)~昭和26年(1951

 

熊谷市中奈良に生まれる。はじめ伯父の舞原耕雲の門人であったが、その後奥原晴湖の弟子となり画技を磨いて、日本美術協会の展覧会に出品、褒賞を受ける事数に及んだ。嘯月堂と号した。

 

 

●石坂養平 明治18年(1885)~昭和44年(1969) 

 

熊谷市中奈良に生まれる。帝国大学哲学科を卒業。明治・大正・昭和を通じ文芸評論家・政治家そして実業界に活躍。戦後は政界を退き、杜会文化の向上に尽くすなど、その一生は多彩だった。

 

 

●吉田翠鳳 明治43(1910)~没年不詳

 

 熊谷市生まれ。本名吉田猪一。三尾呉石後に大橋翠石に師事。

 

 昭和12年白木屋で第1回個展を開催。翌13年に中国に渡り、写生と虎の研究をする。同年帰国後大阪朝日会館で猛虎写生個展を開く。14年白木屋で動物画展開催。15年南洋方面に写生旅行、同年帰国後そごう百貨店で個展。22年横浜で虎の個展。以後毎年東京、大阪、京都、札幌、福岡で新作展を開催。静岡県田方郡土肥町(現伊豆市)にアトリエ「伊豆山荘」で活動。没年不詳。

 

 

●蜂須秀雲 明治10年(1877)~昭和6年(1931

 

熊谷市西別府に生まれる。蜂須鳳洲の3男。江森天淵に南画を学び秋湖と号し、後に田崎草雲の画風を学び秋雲と改める。明治43年に上京し、草雲門下最高といわれる翠雲に師事し、塾頭となる。後年池上秀畝に師事し、秀雲と改める。北武蔵画壇に君臨するまでの画人となった。

 

 

●倉上明湖 元治元年(1864)~昭和11年(1936

 

 深谷市明戸に生まれる。幼少より画を志し、江森天淵に師事し、漢学は森東湖に、書は岩谷一六の風を好む。晩年は、早雲、晴湖に傾倒し、山水画に最も長じた。