大工棟梁林兵庫政清

 歓喜院聖天堂保存修理工事報告書の「建立に関わった人物達」の項に、大工棟梁林兵庫政清について、次のように記述されています。

 「大工棟梁は地元の工匠、林兵庫政清(16781753)、正信(17361802)であることが、棟札、墓碑から確認された」

 また、政清の出自は、「幕府作事方大棟梁を務めた平内応勝(16321683)の二男が、林家に婿入りした人物であることが伝えらえている。応勝は日光輪王寺大猷院霊廟の棟梁を務めた人物である。しかし、今回の工事に伴う調査では、これを裏付ける史料は発見できなかった」

 

国宝を造った親子

 江戸時代中期の装飾建築の頂点に立ち、国宝指定を受けた聖天堂再建の最も重要な人物が、林兵庫政清です。平内応勝のであるとなれば、親子で国宝を造ったということになります。日光輪王寺大猷院霊廟は国宝です。

 最も重要な人物の謎に、私なりに迫ってみました。以下の記述は、史料に基づくものではなく、想像の産物です。

1 幕府作事方大棟梁

 江戸幕府の建設事業の役所は、次のとおりの役割分担がされていたようです。

(1)町奉行 江戸市中の官費経営の橋梁

(2)勘定奉行 河川橋梁の普請、 郡代、代官 直轄地の土木工事

(3)普請奉行 土木工事

(4)作事奉行 建築工事

(5)小普請奉行 幕府建物の普請と修繕

  作事方大棟梁は、作事奉行の傘下の役職となります。

 作事奉行の下に、大工頭、作事下奉行、被官、大棟梁、大工棟梁、 大工肝煎などの職があります。

 大工頭は、技術官僚の最高位で木原家・鈴木家・片山家が世襲し、その下の作事下奉行や被官の職が、他の役所と打ち合わせや連絡、経費や工程、設計図や材料の検査など行う官僚職です。

 実際の建築に関わる仕事を大棟梁、大工棟梁、大工肝煎などが行っていたのですが、役所の組織上、作事方大棟梁の地位は高いものではありませんでした。

 作事奉行の組織は、3代将軍家光の時代に確立し、初代の大棟梁に任じられたのが、鶴・平内・甲良の三家でした。

 参考 江戸時代の大工たち 西 和夫著 学芸出版 1980.4.20

2 平内家

 平内家は安土桃山時代からの城郭、寺社建築の名門です。曽祖父平内吉政は、京都方広寺大仏殿、豊国神社(豊臣秀吉を祀った霊廟)、祖父正信は幕府作事方大棟梁、ライバル甲良宗広(日光東照宮造替の大棟梁)と一緒に登用され、鹿島神宮、増上寺台徳院霊廟等の造営を手掛けています。特筆すべきことは、父吉政と一緒に体系的な木割書である『匠明』を著しました。

日本で最も有名な建築書と言われています。その『匠明』の奥書に「大工は五意達者であること。五意達者とは設計・積算・手仕事(現場大工仕事)に優れ、絵心があってしかも彫刻もできる」、という意味の記述があり、一人五役のような厳しい修業を経た大工を理想像として求めていたのでしょう

3 修行時代

 『匠明』の奥書にあるように、政清名門家での厳しい修行が始まったと思われます。

 記録に登場するのが、残されている棟札に享保年(1720)に諸堂の修復造興を図る願文と一緒に大工林兵庫政清(正清)の名が墨書されています。生年が延宝3年1675)と言われていることから、45歳で

 父の応勝は20代で大猶院霊廟を指揮していますから、大工棟梁として、おそらく妻沼に現れる以前に、活躍をしていたと思われます。しかし、その史料がないのです。兄の下で、日光東照宮の正徳度修理(1715)など参加し、経験を積み上げていたと考えられます。

4 江戸時代中期の大工事情

 江戸時代初期は、江戸城、大名屋敷の建築から江戸の町の造成など、猫の手も借りたいほど、建設関係者は休むまもなく働き、そのピークが3代将軍家光による日光東照宮寛永造替の大事業でした。

 この時期に、作事方大跳梁の3家は、華々しく活躍し、名人の称号と数々の作品を残しました。しかし、宴の後のように、幕府財政の逼迫と同時に建築ラッシュも終焉し、作事奉行所掌の事業が大幅に減りました。そのため、作事方大棟梁家の仕事も急減していきました。更に、修理を受け持つ小普請奉行が、作事奉行所掌の新築工事に参入する出来事が起き、両者の対立なども発生した時代でした。

清が修行を経て、仕事に従事する時代背景は、大工棟梁にとって厳しい環境にあったと思われます。

輝かしい実績を残した一門の一人として、政清はどんな心境であったでしょうか。厳しい修行の下で習得した技術を発揮する場がない。自分の将来を思えば、このまま兄の下で、修繕工事などの仕事で終わるのかと、悩んだことでしょう 

時代背景から推測すれば、地方に出て活躍する場を求めて、政清が林家に婿入りした理由の一つではないでしょうか

5 聖天信仰

 もう一つの理由は、聖天信仰ではないでしょうか

 江戸時代に隆盛し、幕府内にあっても信仰者が多数いました。江戸時代には、待乳山聖天、平井聖天、妻沼聖天を三大聖天として信仰が広がり、妻沼の地に江戸から多くの参拝者が訪れていたと思われます

 聖天堂完成から65年後のまとめられた聖天宮旧記に、「享保6年9月22日政清が聖天の神告を受ける神夢を見て再造立を思い立った」、という逸話は載せていることが、歓喜院聖天堂保存修理工事報告書に取り上げられています。

 この点に興味が湧きました。もともと平内家は、紀伊国根来(和歌山県)の出身で、高野山の宮大工であったのです。平内家は、聖天信仰に篤かったことから、妻沼聖天の参拝もしていたのではないかと想像するのです。

 更に、興奮するような情報として、妻沼聖天堂と酷似しているといわれる「幻の聖天堂」となった館林の天福寺聖天堂の建立された経緯を探ると、政清の謎に迫ることができそうなのです。