赤子稲荷神社

初午祭
初午祭

 聖天山西参道からすぐ。左側に小さな鳥居と社があります。古くは摩多利神社の北側の地にあったようで、地名に「赤子」、「稲荷台」が残っています。旧妻沼町誌(昭和3年発行の復刻版)に「延暦3年(784)に祀る。摩多利堂北にあり」とあります。

  明治の神仏分離に際し、大我井神社が再建されたことに伴い、いったん合祀されましたが、その後、現在地に遷座しています。

 氏子数も13軒という小さな稲荷神社ですが、聖天山との係わりは古く、神仏習合した形で現在まで護持されてきています。

  祭事は初午祭3月の午の日に行っています。

●初午祭(平成25年)

 初午祭は、2月の最初の午の日に行われる祭事です。なぜ、2月の最初の午の日かというと、京都伏見稲荷大社の祭神が、稲荷山の三ヶ峰に降臨したのが、和銅4年(711)2月の初午の日だったからと伝えられています。

 平安時代の頃から、初午の稲荷詣りが広く庶民の間にも盛んになって、全国各地の稲荷神社で春の祭事として行われてきました。

 赤子稲荷神社の今年の初午祭は、3月の始めの午の日となる5日に行われました。

稲荷大明神

 この神社は、明治までは神仏習合の稲荷社として、信仰されていましたが、明治元年に出された神仏分離令により、聖天山に祀られていた神々は、新たな社殿に遷祀し、大我井神社となりました。その後、小さな社は、この大我井神社に合祀されました。その1つに赤子稲荷も含まれていました。

 明治以前は、神仏習合した稲荷信仰であったのでしょう。その稲荷大明神像は、白狐にのる女神(荼枳尼天)であったことから、大我井神社に合祀するに際して、当時の神職であった田島家に預けられ、祭神は稲荷神社の主祭神の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が祀られました。この時期は神道による稲荷神社であったのでしょう。

 その後の昭和34年に、現在地に新たな社殿を建てて、田島家に預けられていた稲荷大明神像を祀ったことが、記録に残されています。

*稲荷大明神像とともに残されていた文書(田島通明氏提供)

赤子稲荷御像

右赤子稲荷明寺初年大我井神社へ移祝以降田島家先祖是性行者の預かりとなり同家に秘蔵されていたが今回聖天境内へ右社移転の上再建せられしに際し是性行者の遺志を体し孫田島半三郎氏曾孫金太郎氏歓喜院へ返納され歓喜院より爾来赤子稲荷を専ら奉祝せらる池之上表廓中へ引継ぎをせられ祭を盛んにすることとなり一同感激に堪えない次第である

                  歓喜院 鈴木英海誌

   昭和三十五年三月七日

  初午落成遷修の日