熊谷ゆかりの女流南画家 奥原晴湖

 

奥原晴湖を取り上げます。

 

 明治時代に大活躍した女流南画家ですが、日本画の一流派であるにも係わらず現在はマイナーな存在となっています。そのために、作品の評価はまちまちで、当時「西の鉄斎、東の晴湖」と言われていたのに、現在は富岡鉄斎とは大きな差ができています。地元人間としては不本意です。

 

 奥原晴湖の魅力は、その作品だけにあるのではなく、生き方にあります。芸術作品はどうしても、後世の専門家や市場価格に左右され、美術館やマニアの蒐集動向で評価されやすくなってしまうものです。

 

 幕末から明治維新の動乱期に、女性が頭角を現し、かつ、プロの画家として収入を得たことは、驚くべきことです。当時、女流画家は他にもいましたが、それは大物男性画家の妻などであった人たちと言われています。

 

 奥原晴湖は、男性に劣らない力量を持ち、活躍した人なのです。

 

 今の時代こそ、もっともっと評価され、顕彰すべき偉人です。

 

講座会場スナップ
講座会場スナップ

 

○奥原晴湖を調べるきっかけ 

 

平成24118日妻沼公民館主催「平成24年度くまがやを学ぶ講座」の中で講師金谷俊夫氏による「奥原晴湖の生涯」を聴講したのがきっかけです。此の会場で数点の作品を見たのが始まりです。

 

晴湖作品 「蓮図」
晴湖作品 「蓮図」

 

●奥原晴湖のプロフィール

 

  1837年(天保8年)に古河藩(現在茨城県古河市)の藩士池田政明の四女として生まれました。17歳の時に関宿藩奥原家の養女となり、江戸に出て画家としての道を目指します。29歳で画室「墨吐煙雲楼(ぼくとえんうんろう)」を構え,晴湖と号します。

 

 明治維新の動乱期に、女流画家として活躍し、南画界の第一人者となりました。その後、古河藩領の上川上村(現在熊谷市)に、交流のあった稲村家を頼り移住し、新たな画室「繍水草堂(しゅうすいそうどう)」を建てて、大正2年に亡くなるまで、22年間この熊谷の地で創作活動を続けてきました。

 

 詳しくは、熊谷市のホームページ「熊谷デジタルミュージアム」の「熊谷の偉人の部屋」に略歴、年表、関係図書及び作品6点が紹介されていますので、ご覧になってください。

 

展示会会場スナップ
展示会会場スナップ

 

妻沼掛軸愛好会主催の展示会

 

平成25112日~14日の3日間、熊谷市立妻沼展示館で、妻沼掛軸愛好会(鈴木進会長)会員の所蔵作品を持ち寄り「奥原晴湖没後100年記念展~奥原晴湖とその一門~」と題し、展示会が開催されました。

 

展示会場晴湖作品
展示会場晴湖作品

 

●南画家

 

奥原晴湖は「南画家」と言われています。中国の南宗画に影響を受け、日本で18世紀半ば(江戸時代後期)に興った一つの画派を「南画」といったのです。

 

 特に江戸時代後期に幕府御用絵師として君臨してきた狩野派に対して、新しい表現や自由な創作を求めて、中国の絵画を独自に学んだ人たちの画派となりました。

 

 江戸時代末期に活躍した「池大雅」や「与謝蕪村」が南画の大成者といわれ、その後、浦上玉堂、谷文晁、渡辺崋山と日本画の歴史に残る画家が活躍しました。幕末から明治維新にかけて、衰微する狩野派を横目に、南画は大流行し全国各地に広まりました。

 

 大流行の時期に、奥原晴湖は活躍し、明治の南画界を代表する画家になったのです。

 

古河市移築の晴湖画室
古河市移築の晴湖画室

 

○古河市の取り組み

 

 現在茨城県古河市に熊谷時代に使われた画室が移築されて管理され、古河市立博物館には、作品をはじめ多くの資料が保管されています。

 

また、古河市にあっては、晴湖研究の第一人者郷土史研究者川島恂二氏の活躍があり、著作や講演など顕彰活動を行っています。熊谷市の公開講座の講師として来熊され、熊谷市民の活動の支援をされていました。

 

 平成46月に開催された平成4年度美術講座の講義録や著書「画賛から見る奥原晴湖」(平成3年刊 りん書房)は、調査活動の貴重な参考資料となりました。

 

妻沼路地裏ギャラリー展示物
妻沼路地裏ギャラリー展示物

 

○小さなPR企画

 

 平成25413日、14日開催の妻沼手づくり市に協賛して、我が家の庭(妻沼路地裏ギャラリー)で奥原晴湖のPR展示を行いました。我が家は妻沼手づくり市の会場エリアにあります。残念ですが、見学に訪れた人たちは、ほとんど奥原晴湖を知らず、その知名度は低く、古美術愛好家中で生きている存在と言えます。

 

 

●晴湖作品「上州に遊ぶの図」

 

 この作品は書が中心で、晴湖の書の特徴が窺える作品です。

訳文

 

蒼突(そうとつ)の林巒(りんらん)夕を背いて暉く

 

九重の楼閣一泉飛ぶ

 

渓頭の客は是れ僧を訪ふ客なり

 

白雲を踏破して紅葉に帰る

 

意訳 「崖の突出した危ない処に蒼く繁った数本が生え、今、夕陽を背負って、秋氣を吸って清く輝いている、下の九重の楼閣には冷たい秋の泉が跳ね散っている。この谷川を渡って来た客は、僧を訪ねてきたが、今まで白雲紅葉の秋の山や谷の自然を通って、紅葉のここに戻って来た人だ。」

 

(「画賛から見る奥原晴湖 川島恂二著」から)

 

皇紀二千五百四十二年 遊上州為山田貴姓東海晴湖戯画

 

明治15年、晴湖46歳の作品です。

 

安楽寺ポスター
安楽寺ポスター

 

 ○安楽寺主催「奥原晴湖とその時代」展

 

 平成24531日から623日間、安楽寺本堂特設会場で晴湖の作品100点が展示されました。安楽寺はさいたま市にある浄土真宗のお寺です。展示作品は寺の住職の収集品が主でした。初期から晩年までを展観でき、「これが晴湖の作品か」と圧倒される思いでした。